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世界遺産、ローマの歴史地区
全ての道はローマに通ず。かつてローマ帝国の街道は遥か遠い国へと続き、その総延長は8万5千キロもあった。高度な技術で作られた街道。しかしその完成までには600年もかかった。まさに、ローマは一日にして成らず。人類の歴史にその名を残し、今もなお私達に憧れを抱かせる偉大なる古代ローマ文明。ローマの歴史地区は、1980年、世界遺産に登録された。 |
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イタリア、ローマの町には今もなお古代の遺跡が数多く点在する。その一部は今でもほぼ完全な姿で残っている。代表的なものとしてはパンテオンがあり、1900年前の建造物で、もともとは全ての神々の神殿だったが、やがて聖母と殉教者の礼拝堂となり、中世には要塞になったこともある。入り口の重厚なブロンズ製の扉はローマ時代のもので、かつては外壁もブロンズ張りだった。入り口の突き当たり半円形の部分は礼拝堂で、縞模様の美しい円柱はアジア産の大理石を使用している。聖母子像の彫刻はラファエロの作品で、彼の墓もここにある。玄関廊の立派な16本の円柱はエジプト産花崗岩である。床の大理石の幾何学模様はとても美しく、ルネッサンス建築にも大きな影響を与えたと言われる。
ローマ文明の特徴として浴場があるが、古代の世界では風呂に入る習慣のある文明は限られている。有名なものとしてカラカラ浴場があり、1600人も収容できた。ローマ市民の憩いの場で、性別や人種や貧富の差別はなく、皇帝までもが市民と同じ湯に入った。豪華な建物で、床は大理石やモザイク画になっていて、絵画と彫刻が壁や天井を埋め尽くしていた。各種浴室の他に、体育館や図書室まであった。公共浴場は社交場としての役割もあり、皇帝や元老院議員が市民と一緒に過ごした。ローマ帝国の五賢帝の一人、ハドリアヌス帝もよく公共浴場を訪れた。ローマ最大の浴場はディオクレティアヌスの浴場で、3000人も収容できた。
テベレ川の岸に建つサン・タンジェロ城は139年に皇帝墓廟として作られたが、その後、城塞や牢獄、教皇の避難所や居室などさまざまな用途に使われた。590年に教皇グレゴリウス1世が当時のローマを襲ったペストの終焉を祈願していると、大天使ミカエルが現れてペストがおさまった。その後、礼拝堂が建てられて、聖天使を意味するサン・タンジェロ城と呼ばれるようになった。
ローマの名所として有名なのがトレビの泉で、建築家ニコラ・サルヴィが1762年に作った。彫刻はピエトロ・ブラッチの作品である。バロック様式の壮麗な美しい噴水で、観光客がよくコインを投げ入れている。
ローマ文明を支えたのが高度な建築技術で、街道や水道の建設にとても重要だった。舗装の技術も完璧で、まず5メートルほどの幅で土を掘り起こし、水はけのために3、4層の石やブロックを積み、最後の舗装には玄武岩や砕いた石や砂利を使用した。また、道の両脇には排水溝や歩道を作った。このローマ街道によって遠い地域との交流が深まり、ローマを発展させたのである。ローマの土木技術で特に高度なものが水道の建設で、谷間では水道橋が建てられ、その勾配は1%以下だった。その給水量は現代の都市と変わらなかったと言われている。ローマの最盛期には優秀な皇帝が次々と登場した。ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスが特に有名で五賢帝と呼ばれ、軍人として勇敢で、最高の人格者でもあり、財務や政治もそつなくこなした。この五賢帝の時代はローマ市民も幸福で善良だったと言われている。優秀な政治と軍隊は善良な市民が存在してのみ成立すると言われるが、まさにローマがそれを証明したのである。ローマ市民は食べるのには困らなかった。小麦の無料配給を受け、朝食と昼食はパンとチーズとワインが主で、夕食は3品以上だった。食材も現代と同じくらいの水準で、前菜はハーブを使ったオリーブが出され、季節の果物が器に盛られていた。メインディッシュは豚肉やイノシシの肉、鶏肉やチーズ、牡蠣などだった。今も残る壮大な遺跡と、美味しいイタリア料理。それは古代ローマ人が残してくれた素晴らしい人類の財産と言える。
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